まだまだ終わらない原発事故

3月21日の記事に、「ようやく一段落しましたね」と書きましたが、最近次々と公開されてきたデータを目の当たりにして、結局あの時報道された「一段落」とは爆発的大事故を防ぎ続けるサイクルの構築するめどがたったということだけで、未だに爆発的大事故をギリギリで防いでいる状況であるとのことです。なるほど自分の意図していた「一段落」とは大分意味合いが違うことが明らかになってきた。逆に言うと、あの時全く安定していなかったわけで、自分の理解していた状況と大きく異なっていたことが明らかになってきました。そう考えると、
原発を正しく理解し、その重要性を理解した上で賛否を唱えて欲しい。」
と言い放った自分も、当時の状況を正しく理解していなかったわけで、非常に悔やまれます。
その後もちょくちょくと原発関係の記事や、基本的な仕組みをもう一度見直しましたが、やはり個人的には原発には反対できません。しかしまた、原発反対の運動が世界中に広まってしまった以上、残念ながら今後の原子力発電は衰退していくしか無さそうです。
今となってはどうでもいいことですが、自分が原子力発電に反対できない理由としては下記のことが挙げられます。

  • 現存する発電技術の中で随一の発電効率を有する
  • 日本の科学技術の結晶(と同時に功罪)である
  • 未来のエネルギー技術の鍵となる技術である

「科学は人を幸せにする」なんてフレーズがあると思いますが、科学技術自体に人を幸せにする能力はありません。即ち、科学技術が結果的に人を幸せにすることがあっても、必ずしも人を幸せにするために発展するものではないということ。ノーベル賞創始者であるアルフレッド・ノーベルはダイナマイトの開発で巨額の富(人によってはこれ自体が幸せ)を築きましたが、自分の生み出した鉱山発破用技術が、まさか人殺しのツールに使われるなんて想像し得ませんでした。同様に核分裂によって生じるエネルギーの爆弾利用なども、発見当初誰が考えたでしょう?そういった意味では、極論ですが、場合によっては「科学は人を不幸にする」事例はいくらでも挙げられます。

広島・長崎に原子力爆弾が投下され、多くの命を奪ったわけですが、その落とされた国である日本が、率先してその技術を平和利用(発電利用)することは、まさにアルフレッド・ノーベルノーベル賞を考案したのと同様、今後の核兵器の拡散防止に対する、日本の果たせる最大限の貢献ではないかと思います。だからこそ、アメリカを筆頭とする核兵器保有国のどこでもなく日本で原子力発電を成功させる意義があると思っています。戦後60年を過ぎ、もうじき70年になろうとしている現在の日本では、そういった本来の意義が失われ、「大丈夫だ、問題無い」と原子力発電所の運営上、考えられる課題をないがしろにし、挙げ句実際に事故が起こった後に真っ当に対処できないという嘆かわしい状態にまで陥ってしまっています。

さて、ここまで聞いて
「寝返ったか?」
と思われる方もいるかと思いましたが、実は今回事故の起こった福島原発以外の原発がどうなったかということをご存じでしょうか?福島第二原発女川原発柏崎刈羽原発は、M9クラスの地震に耐え、正常にシステム停止と冷却処理を行ったと言われています。またこの報道に関して意を唱えるのも自由ですが、これが仮に本当だとしたら、これは大変なことです。しかしまた、その一方でそれだけ耐えてくれた原子炉に関する補修体勢や余震対策などといった方法が未提案、かつ不十分だったことから、女川原発で震度6クラスの余震後に数カ所の燃料冷却プールなどからの水漏れが見つかり、放射性物質のリークが確認された模様です。全くもって嘆かわしい。

推進を支援したいのに、正直、現行の既得権益体勢や対処不備のまま続行するのは無理があるというのが正直なところです。これは、こういう風にも置き換えられます。「日本が豊かな国になって欲しいし貢献したいのに、社会が腐っていて落胆」と。

推進派としては、次のことで貢献できます。

  1. 事故収拾の為に必要な技術の構築と支援する
  2. 国策である(この先そうあるかは疑問だが...)原子力発電に関する教育を徹底する
  3. リスクアセスメントを徹底する

1.に関しては、最近話題の児玉龍彦教授の提案*1の通りです。
2.報道機関などの説明が完全なるナンセンス。世界を率先して導いている国を挙げたプロジェクトなのに国民の知識が遠く及んでいない。
3.に関しては、原発、科学技術云々のみならず、国家規模の最大の弱点です。イギリスに来て思ったのですが、リスクとは具体的にどういう事かを、科学研究や実験を行う前に徹底的に考えさせられます。
「リスクは可能な限り排除すべき」
という考え方は完全にナンセンスです。先ず第一に、リスクフリーなタスクなどこの世に存在しません。何をするに関しても必ず何らかのリスクは伴います。だから極論から言うと
「リスクは多くても構わない」
ということです。それだけのリスクを取る価値があるものだと判断したなら、そのリスクを堂々と取ればいい。考えてみれば当たり前の事です。その代わりリスクを取るなら同時に責任も取るということ。自分を含め、日本人は責任を取ることを極端に嫌う、あるいは苦手な人種です。そう考えると、日本人が「リスクは可能な限り排除すべき」と考えるのは当然といえば当然かもしれません。しかしまた、そのコンセンサスのせいで、一部の人は嘘をつき始めます。責任を取りたくないから、当然そこにあるリスクを無かったことにするわけです。リスクはないからやらせて欲しい。実に汚いですが、日本人の殆どが持っている精神ゆえに、これが今日も国家的な弱点となっているわけです。

そんな感じで、リスクについては多分近々ラジオにて放送して主張したいと思いますので、バックナンバーをお楽しみください。