議論って難しいね。特にこの国では

ってことで、3ヶ月ぶりの更新である。

日本という国は「和」を重んじる国である。最近では「空気」とかいう言い方もするが、相手に気を遣って可能な限りの表面上の争いは避けることが美徳とされている。不思議なことに、これほどまでに価値観が変わった現在においても、なぜかこのスタンスだけは保たれている。いや、保たれているというか、過剰な状態に膨れあがってきてしまっているとさえ言える。

今や小学生も相当な勢いで気を遣ったり空気を読んでいる時代である。僕が小学校の頃は、いじめはあからさまで、ケンカもあって、都度先生が介入、ひっぱたくなんてのもざらであったし、殆どの親もそれに同意していた。しかし、今はどうだろう?

そんな不思議な国の日本だが、なんといっても一番難しいのは議論、すなわちディスカッション。ディスカッションとはいわばゲーム的にロジックと戦略のもと、自分の主張を通すという言語の営みであり、決して相手の人格否定をするためのツールではない。しかしまた、ぶつかり合う相手の主張を必要に応じて否定しなければならない場面は必ず存在し、それは回避不可なのは明白である。これは上記の「可能な限りの表面上の争いは避ける」という美徳に反している。

元々日本語という言語は論理的には冗長的であり、言語及び文章における曖昧さがその主な原因だと僕は推測する。かといって日本語を用いては議論が出来ないのかというとそうではない。しかしまた、議論は自分の主張を通す営みなので、従って冗長性や曖昧性は可能な限り省かれることが理想である。となると、普段はやわらかい言語が途端に鋭利な刃物に豹変する。決して相手の人格否定をしていなくても、相手の主張を攻撃することで、それがあたかも人格否定のように聞こえてしまう。

ロジックが通しきれなかった場合は負けを認めて次に進む。これも日本人が非常に苦手とする部分だ。即ち議論に勝てない憤りを議論でない場で発散しようとする日本人が多い。いわゆる給湯室、トイレでの会話内容の場にそういった手立ては運ばれ、企てられ、そして実行されていく。
僕の同期の数学専攻の友人は、自分の主張を通す様が、どうも他の人からは「怒っているのでは」と勘違いされてしまうらしい。彼は非常に鋭い切り込みで、議論相手の隙を迅速かつ的確に見つけ出しては突き刺す。これがどうも相手には精神的にキツいらしく、止めて欲しいと言われたことだってあったそうな。

彼を代弁して、かつ自分からも言わせて貰うが、全くもって我々は怒っていない。熱くなることはあっても、それは怒りとは異なる。だから勘違いしないで欲しい。もしそれらの言葉、即ち議論の時に用いられるrawな日本語によるやりとりが精神的にキツいのなら、それは残念だが議論をする技術を持ち合わせていない。

無論、主張を押し通すための術が議論しかないと言っているわけではない。ご機嫌取り、スマイル、ロビー活動的なもの、金、権力、たーくさんある。しかし、それは議論の回避であり、議論をする技術を持ち合わせていないことには変わりない。

是非ともこれを読んだ方は、正しいディスカッションの仕方について考えて欲しい。その答えは十人十色であることには間違いないから、自分のスタイルをある程度形取って欲しい。

あ〜...眠いので正直後半何書いたかよくわかりません><おやすみなさい。